教育勅語のどこがダメか。
2017-04-17 08:22:190 Comments
『園児に「教育勅語」 安倍政権の支持勢力が…』
教育勅語はどこがダメか
http://vergil.hateblo.jp/entry/20140507/1399469208 より
というか、こんな簡単な問題すら理解できない者たちが政治家をやり、しかも政権中枢で政策決定に関与しているのだから、まったくお話にならない。
たとえば下村博文文科相はこんなことを言っている。[1]
「(教育勅語には)至極まっとうなことが書かれており、当時、英語などに翻訳されて他国が参考にした事例もある。ただしその後、軍国主義教育の推進の象徴のように使われたことが問題だ」
下村博文文科相は8日、教育勅語の原本が確認されたことと絡めてこう述べ、内容そのものには問題がないとの認識を示した。
教育行政のトップからしてこの体たらくである。
この下村の認識は二重三重に間違っているのだが、どこがどうおかしいのか、具体的に見ていくことにしよう。
まず教育勅語の全文を見てみる。
リンク先の画像が示すように、各学校に「下賜」され、行事のたびに「奉読」が義務付けられたこの勅語には句読点も何もなく、べったりとした文語体である。さすがに読みにくいので、最小限の句読点と改行、振り仮名を加えると、次のようになる。
朕惟(おも)フニ、我ガ皇祖皇宗、國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ。
我ガ臣民、克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ世世厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ、此レ我ガ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦(また)實ニ此ニ存ス。
爾(なんじ)臣民、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ、恭儉(きょうけん)己(こ)レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、學ヲ修メ業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ、進デ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ。
是ノ如キハ獨リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。
斯ノ道ハ實ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スベキ所、之ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖(もと)ラズ。朕爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺シテ、咸(みな)其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。
明治二十三年十月三十日
御名御璽
教育勅語は、その冒頭の一句「我ガ皇祖皇宗、國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ」からしてデタラメである。
「皇祖」は天照大神または神武天皇を指すとされるが、古事記の記述によれば、神武は何の大義もなく九州から近畿に攻め込み、殺戮とだまし討ちを繰り返したあげく奈良盆地の一角を占拠した侵略者に過ぎない。神武が「徳ヲ樹ツル」など、冗談としか言いようがない。
もちろん「皇宗(歴代天皇)」がずっとこの国を治めてきたわけでもない。そんなことはこの「勅語」を起草した者たち自身、重々承知していた。なにしろこの「勅語」が発布されたわずか四半世紀前はまだ江戸時代であり、現に徳川家の将軍が天下を統治していたのだ。
幕末維新期の一般庶民にとって、そもそも「天皇」など知らないか、知っていても関心の対象外だった。だからこそ、明治の初めから10年代にかけて、民衆に天皇という存在を知らしめ、その権威を見せつける全国巡幸が必要だったのだ。いわば、天皇の顔見世興行である。[2]
「江戸末期から明治維新における天皇という存在は,新しく政治家,官僚になった武士やもともと地方の支配勢力と何らかの関係を有していた上層の民衆とは異なり,一般の民衆には未知なものであり,無関心なものであった」。「天皇という存在が民衆と隔絶していた」ので,「封建的権威にとってかわり,にわかに権力主体になった天皇はあまりに未知数であった」。この「天皇を行幸など様々な形で『見える権力』にしない限りは,必ずしも求心力になりえない状態であった」。
このように、教育勅語は嘘つきが道徳を説いてみせる典型例と言える。
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